少林寺拳法紹介
Shorinji Kempo
少林寺拳法とは
少林寺拳法は1947(昭和22)年、日本において宗道臣が創始した“人づくりの行”です。
自分の身体と心を養いながら、他人とともに助け合い、幸せに生きることを説く「教え」と、自身の成長
を実感し、パートナーとともに上達を楽しむ「技法」、そして、その教えと技法を遊離させず、相乗的なス
パイラルとして機能させる「教育システム」が一体となっています。
人間は生まれながらに、どのようにも成長してゆける可能性を秘めています。少林寺拳法は、その可能
性を信じて自分を高め続けられる人、周囲の人々と協力して物心両面にわたって豊かな社会を築くために
行動できる人を育てています。
少林寺拳法の創始の動機と目的
少林寺拳法の創始者である宗道臣は、戦後の混乱のさなか、自身の体験から、リーダーの質によって、
集団や社会の方向性が大きく変わるという真理を悟りました。そして、リーダーシップとは、自信と勇気
と正義感、行動力に根ざすものであると定義付けました。
人が平和で豊かに生きてゆくために、正しいリーダーシップを発揮できる人間を一人でも多く育てよう
という“人づくり”の志を抱いた宗道臣は、敗戦直後の混乱で自己を見失いそうな若者たちに、人として
豊かに生きるべき道を説くとともに、身体を鍛え自信を得るのに有効な技法を教え始めました。修練の中
で、道を説いて誇りや信念を引き出し、人が生まれながらに持つ成長の可能性を実感させ、自信と勇気と
行動力を併せ持つ、社会に役立つ人を育てようと創始したのです。
人づくりの行
少林寺拳法は勝ち負けを目的としていません。修行を通して自身の人格形成を目的とし創始されました。
人間は一人で生きていくことはできず、多くの人に関わって生きています。
そのため、少林寺拳法は「自分さえよければよい」といった偏った考え方をせず、少林寺拳法の修練を通して肉体も精神も健全で頼りになる自己をつくり(自己確立)、自分と同じように他人の幸せも考えて行動する(自他共楽)ことを目指す、人づくりのための「行」なのです。
護身の技術
少林寺拳法の技法は護身術です。
誰かを傷つけるためのものではなく、不正な暴力から自分や他人を守り、活かすための護身術です。
そのため、体格の大きさや力の強さ、性別・年齢に関係なく相手を制することができるよう合理的に構成されています。
少林寺拳法の特徴
力愛不二
力の裏付けのない正義(愛)は無力であるが、正義を伴わない力は暴力に過ぎない。人間として強く、正しく生きてゆくため、自分が大切と思う人や他人のために平和で豊かな社会を実現させるには、理知や力だけではなく愛や慈悲が必要である。
相反するように思われるこの二つのものは別々に存在させてはならず、調和された状態こそが理想的であり、そうでなければならないという考え。
拳禅一如
拳は肉体などの外面的なもの、禅は心などの内面的なものを表す。肉体と精神とは切り離すことができないものである。したがって、どちらもバランスよく修行すべきであるという考え。
肉体を鍛えただけでは円満な人格はできない。また、精神だけでも人や自分を守ることや、真に健康で幸せな生活を送ることはできない。
不殺活人
少林寺拳法は、人を傷付けたりするために用いるのではなく、武の本義に徹し人を殺傷せず、自分の身を護り、他人を助け、活かすための活人拳である。
そのため我々拳士は、修行を通じて社会の乎和と幸福に貢献することを目指して、演練している。
守主攻従
まず守り、それから反撃するという意味で、ほとんどの技法が防御からはじまり、反攻に転じる。これは、敵を倒すことを目的としているのではなく、正義正法を護るためだからである。
勝つ必要はない、それよりも絶対に負けないことの方が大事なのである。また、不敗の態勢を確立して後手必勝の機をとらえるためという技術的な教訓も含まれている。
剛柔一体
剛法とは、突き蹴りなどの攻撃や、受けたりかわしたりする防御のことである。柔法とは、投げたり固めたりして相手を制する技法である。
両者は別々のものではあるが、どちらに優劣があるのではなく、両者一体となって初めて護身の技術として威力を発揮するのである。そのため、普段から相手の出方や攻撃の質・種類に応じて自在に対処できるよう修行していく必要がある。
組手主体
武として拳枝を用いる場含は、必ず相手がおり、攻防の機や間合など種々の条件が必要となる。これらは単独では会得し難いものである。したがって、技術の修行は初心より相手と組んで演練することを主体としている。
そして、ここから自分が上達すると共に、相手にも上違してもらおうとお互いに連帯感が生まれ、無意識のうちに相手を認め、立てる習慣が身につき、協調性のある人格が養われる。